スズキ スーパースポーツ M40 1963年 オリンピック前の激動時代

こんにちは。
ともやんです。

スズキ スーパースポーツ M40 1963年
空冷2サイクル・単気筒
排気量:49cc
ボア・ストローク41mm×37.5mm
最大出力:5ps/9,000rpm
最大トルク:0.41kg-m/8,000rpm
全長1705 全幅660 全高860(各mm)
重量:70kg
最高速:90km
始動キック 前進6段
タイヤ:F2.00-18 R2.25-18
価格\150,000

レース参加を前提とした保安部品付きの市販ロードレーサー。
全日本モーターサイクルクラブマンレースやモトクロスで活躍しました。

スズキ スーパースポーツ M40 衝撃のデイトナGP

発表を前にしたデイトナGPでは、50ccクラスで1位から5位までスズキチームのワークスモデル(RM41)が独占しました。その中に明らかにGPレーサーではないモデル(MR41)も含まれていたと言う記録が残されています。

このモデルこそがスズキ初のスーパースポーツM40だったのです。

ダブルクレードルのフレームに、ピストンバルブの2ストロークエンジンを積む。
ボア&ストロークは41×37.5mmの48.3cc。
ノーマルパワーは、6.5ps/9,000rpmながらエキスパンションチャンバーの取り付けにより8.5ps/11,500rpmの最高出力を発生しました。

セッティングにより10psを楽に超える実力を持っていました。

フロントダウンチューブは大きく後方へ反するように下げられて、トライアングル状の一点にエンジンがセットされている特徴的なスタイルを持ちます。

保安部品装着のモデルは非常に珍しく、多くはレース用のMR41かTR50として残されています。

点火方式はフラマグでキックは前方踏み。
6段ミッションを介して100km/hの最高速度が可能でした。
サーキットでは130km/h以上のポテンシャルを引き出すことが出来ました。

スズキ MR41 鈴鹿サーキットの勇姿

1962年に鈴鹿サーキットが開業。

第一回目の記念すべき全日本ロードレース選手権では、RM62として50ccクラスでトップ争いに終始しました。残念ながらトップは逃しましたが、2位から4位まで独占しました。

翌1963年は、鈴鹿サーキットにおいて、第一回目の日本GPが開催。
スズキは、50ccクラス2位から6位まで独占、125ccクラスで優勝と、海外での実績を国内でも実証してみせました。

この50ccGPレーサー(RM62)のフレームに、ピストンバルブエンジン(RM62はロータリーバルブ)を搭載し、市販レーサーとしたのがMR41でした。

出力は、GPレーサーの11ps前後に対し、ノーマルで8.5ps/11,500rpm(エキスパンションチャンバー使用で10ps前後)。最高速はノーマルの130km/hに対し、GPレーサー(RM62)では145km/hを誇りました。

公道仕様のM40は6速ミッションで最高速100km/h、最高出力は6.5ps/9,000rpm。
レーサーは8速を使用していました。

スズキ スーパースポーツ M40 1963年という時代

翌年の東京オリンピックを控えて、社会的な事件、事故など問題が続出した年でした。
ブログにはあまり暗いニュースを載せたくないので、簡単に触れたいと思います。

1月には東北・北陸・山陰地方の豪雪で大きな被害。
春には、東京で義展ちゃん事件と言われた誘拐事件。僕はこの事件報道よく記憶しています。
そして狭山事件、サリドマイド禍の深刻化、東京の地下鉄駅での時限爆弾事件。

三井三池炭鉱での炭塵爆発事故や、東海道本線の鶴見での衝突事故で多数の犠牲者。

まだケネディアメリカ大統領の暗殺事件が衛星放送で流れた、という大変な年でした。

当時、まだ6才で未就学児童でしたが、家のTVが入ったばかりだったのでしょう、上記の事件や事故は結構、記憶に残っています。

まとめ

映画「ALWAYS 三丁目の夕日’64」を見ていると昭和30年代のオリンピック前後は人情味あふれる素敵な時代に描かれていますが、今から思うと大変な時代でした。
安全への認識も低く、大きな事故や事件も多くありました。

でも時代全体が上昇気運で、その気分を懐かしく思う僕よりも上の世代の人達もいるのは確かですね。

ちなみに「ALWAYS 三丁目の夕日’64」の原作者西岸良平氏は、1947年生まれですから、
この頃高校生ですから、僕なんかよりずっと懐かしく思うのはわかります。