ヤマハ YDS1 60年代 本格派スーパースポーツと時代の背景

こんにちは。
ともやんです。

こんにちは。
ともやんです。

1960年(昭和35年)。僕はまだ3才。
この年ローマオリンピックが開かれ、次は東京だということで日本全体が上昇気運の時代でした。

また今上天皇が生まれた年でもあります。

僕がかすかに憶えているのが、ダッコちゃん人形です。
ビニール製の人形で、腕などにダッコしているような人形でした。

そしてこの年、ヤマハからライダーたちを熱くするマシンが登場しました。

それがヤマハ YDS1でした。

ヤマハ YDS1 1960年

ヤマハ YDS1 1960
空冷2サイクル2気筒
弁機構ピストンバルブ
排気量:246cc
ボア&ストローク:56mm×50mm
最大出力:20PS/7,500rpm
最大トルク:1.9kg-m/6,000rpm
全長1990 全幅615 全高950 軸距1285(各mm)
重量:138kg
ミッション:5速
最高速:140km
タイヤ:F3.00-18 R3.00-18
価格\188,000

カタリナGPや浅間火山レースに出場した工場レーサーの市販モデルです。
ベースはYD1で、車名はスポーツ250Sでしたが、すぐYDS1に改名しました。

初の5速ミッション、2キャプ、タコメーター装備と、本格派のスーパースポーツとして60年代を輝かしく飾るようにデビューしたマシンです。

ヤマハ YDS1 ライダーのハートを熱くしたマシン

ヤマハのYDS1は、2スト派ライダー達のハートを熱くしたマシンです。

4000rpm以下では、全く役に立たないシビアでシャープなエンジン、
ハイギアードでクロスレシオのミッション、
そして加速中の独特の吸気音。

また、ミッションのタッチは、ストロークが長い硬めのもので、決して使いやすいものではなく、しっかりした操作技術が必要でした。

左足によるキックは、スタートの際には、右足を付けたままギアチェンジも行える合理的な面もありました。

ヤマハ YDS1 60年アカシアの雨が止むとき

1960年というと昭和35年。

僕はまだ3歳だったのに西田佐知子さんの歌う「アカシアの雨が止むとき」が非常に印相が残っています。

もしかしてリアルタイムではなく、あとの記憶かもしれません。
でも西田さんのけだるい感じがまだ幼少だった僕も惹きつけられたのかもしれません。

ちなみに60年の平均年収が30万円というからYDS1の18.8万円なんてとんでもない値段だったのですね。現在が約420万円くらいですから250万円位のクルマを買う感覚ですか。

ただローンの仕組みが既に出来ていたと思うので、一般の給与所得でも無理すれば買えたのかもしれません。
購入する人は、若者も多かったと思うので、オートバイを1台買うとなにも出来なくなり
オートバイの維持費のために働くという時代でした。

ヤマハ YDS1と生産台数世界一

戦後のモーターサイクルの歴史がそのまま日本経済の状況に合わせるように推移していると思います。

日米安保改定条約に調印した岸内閣は5月に強行採決。これが安保改定阻止の闘争が始まるわけで、その孫の現首相安倍氏もなんか繰り返している感はありますね。

岸内閣後、60年に組閣された池田内閣は「所得倍増計画」を唱え、新たな経済成長指針を示しました。

幼かった頃の僕でも、池田首相の「所得倍増計画」を聴いていて、
でも僕は良いも悪いも分からない子供でしたが、父親の給料が上がり、
世の中はイケイケどんどんの雰囲気はありましたね。

さて、この年モーターサイクルの生産数がフランスを抜いて世界一(1,473,084台)になりました。輸出も52,268台で前年比288%という伸びを示しました。

また免許制度も改定され、原付が許可制から免許制へ、取得年齢も14才から16才に引き上げ。
原付第1種は2人乗りが禁止され、最高時速は30km/h。
交差点での右小回りが禁止されたために50ccのボアアップ車が多数出現しました。

まとめ

戦後、多数のオートバイ会社が立ち上がりましたが、60年頃になるとどんどん再編されてきたように思います。
特に大きな再編としては、川崎航空機工業と目黒製作所と業務提携で、その後62年には、カワサキメグロ製作所への社名を変更。

結局、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4社が残りました。
残った4社にも残った理由はあるでしょうし、オートバイから撤退した優良企業もあります。

どこが経営判断の決め手になったかにも興味がありますが、どこまで知ることができるかもあ面白いところだと思います。